昭和42年02月07日 夜のご理解
信心を、頂いていけば、行き詰まりがない。これで、これから先、どうしようかと、言うようなことがない。信心をさせて頂いておれば、行き詰まりというものがない。しかもその、行き詰まるかのように見えたそのことは、より良いおかげを頂くための、行き詰まりのように見えるのであって、その行き詰まったようにあるところを、先に進んでいったら、より良い、有り難い道が開けてくる。
それが、信心という道なんです。信心を頂いておるものは、だから、そういうふうに、おかげを受けていかなければならない。去年よりも今年、今年よりも来年、というように、いわば、日々、または、年々に、おかげが広がっていく。そこんところを、お取次ぎを願い、お取次ぎを頂いていくと、こういうふうに言うんです。皆さんが、お取次ぎを願われる。様々な問題をこう願われる。
それを、私は神様にお取り次ぎをさせてもらう。ですから、また、神様もまた、今度は、願う氏子に対して、おかげを下さるということと同時に、お取次ぎを、また、氏子に下さる。皆さんがお取次ぎを願い。そして、お取次ぎをまた頂いていかなければいけん。だから、お取次ぎを願う、お取次ぎを願うという、ただ願い、願い、願いということだけでは、道は開けんのです。
お取次ぎを願うたら、お取次ぎを今度は頂いて帰らにゃいけんのです。いわゆる、神様にお願いをしたならばです、神様の言い分もまた、聞いて帰らなければ、道は開けんのです。ですから、それではですね、いわば、信心しよっても、いつも同しところ。いわゆる、それは堂々巡りの信心とこういうわけなんです。自分が堂々巡りの信心だなぁと、おかげが一つも進展していないんだなとこう、気がついたらです。
自分はお取次ぎを願うだけで、お取次ぎを頂いていきよらんということを、まず、悟らなければいけないのです。お取次ぎ、お取次ぎを願って、お取次ぎを頂いていく生活。そこに、人間の幸せな生活が、より良い生活ができる場が開けてくるんです。今日、あの、そこに、宮崎さんち言うて、初めて今日、あの、主人の方は、先日から、何回か参ってきてる。家内の方は、こちらに縁についてこられて。
今日初めて、中島さん達のいとこにあたる方です。お導きして参ってきておるんですね。そしたらその、この前、ある一つの行き詰まった問題があったから、お願いしてあったんです。そしたらね、頂くことが、この、ちょうど壁のように見えとった。ちょうどもうこれで行き詰まった壁のように見えとった。確かに、夫婦の間に、もうこれは行き詰まった、これ行き詰まった、そんな感じだったんです。
ところがそれは壁じゃなかったんですね。丁度襖に引き手を付けて下さる様に、引き手のところをこう頂くんです。だからお取次ぎを頂いてから、引き手をこう開けた。ところが次の道は開てこん。だからまたその次の方も、いかにもこう壁のように見えるんです。だからそこんところをまた、お取次ぎを頂いていかにゃいけんのです。そすと神様はそこに、お取次ぎという。
おかげによって、その引き手のようなものをくださるから、それが、また、開けられていく。しかも、限りない。金光様、おかげが頂けるでしょうか、と言うてから、ある、お道の先生が、三代金光様のご時代にですね、そうお伺いをなさった。ある難儀な問題があったんです。どうにもできないような問題があったんです。金光様、道が開きましょうかと、おかげを頂けましょうかと言うてその、お伺いをされた時に。
金光様が仰ったそうですね。「はい、向こうの方は開けっ放しでございます」と仰ったそうです。開けっ放しということはですね、ずっと、開けっ放しに開けてあるというのじゃなくてです。やはり、そこにちょうど幕があるように、または壁があるように、やはり、そこにあるんです、確かに、障子が閉めてあるように、例えて言うならば。ですから、そこんところに、行ったら、そこんところを。
お取次ぎを頂いてから開けていくんです。自分でこう開いていくのです。ですからもう限りないのです。もう何千何万のようは部屋があるやら分からんのです。行けば行くほどに、深い、広い、神様のお恵みの中に入っていく訳なんです。いわゆるおかげの世界へ、おかげの世界へと入っていくのです。そこんところがですお取次ぎを願うただけじゃいかんお取次ぎを願うたら、お取次ぎを頂いて行かなければいけんのです。
ですからお取次ぎをお願いさせて頂いたら、神様の言い分である所のご理解をようく聞かせてもろうて。神様の心であるところの、お話をようと聞かせて頂いて、自分達の生き方の上にそれを応用していくそれを行じていく。そこにまた次の部屋が開けてくる。行き詰まったかのようで、またお取次ぎを願う。また次が開けていく。もうだからもう限りがないのです。ようにまたおかげも限りがないのです。
皆さんが、お取次ぎを願うとこう言うが、お取次ぎを願うたら、同時に、お取次ぎを頂いて帰らなければ、ならないということ。ところがその、多くの、お道の信奉者の中にはです、お取次ぎを願うただけでです。お取次ぎを頂いていかないから、言わば、私の信心は堂々巡りであるとか、おかげが一向堂々巡りであるとかというようなことになってくるのです。お取次ぎを願い、お取次ぎを頂いていくというところにです。私は、むしろ、重点を置いていかにゃいかん、お取次ぎを頂いて帰るということに。
そしてそのことを信心生活の上に、生活の上に現していかなければいけない。ちょうど、それは、壁のように見えておる。もうこの壁に行き詰まったように見えておるけども、そこに、引き手を与えて頂くような感じで。そこを、開けさせて頂くところの努力、精進というものがです、次の部屋を、しかも限りなしに進めていくことができる。もちろん、おかげも限りなしに頂けれる。
いかにお神酒をくださいと、言うても、手の平にお神酒を、酒はついであげる訳にはいかんのです。今日は、熊谷さんが、こういう先ほど徳利を持ってきてくださったんです。もう昔の事です。あそこに、いろいろ。今、ご神前出たらですね、この徳利を頂くんですよ、。やはりあの、徳、徳利という、徳を頂かにゃいかん、徳を。その徳には必ず、利が付き物だということです。実意なおかげということです
。徳利を頂いて、そして、これに醤油入れてくださいとか、お神酒を入れてくださいと言わなければ、入れてやりようがないと神様は仰った。お取次ぎを願うたら、お取次ぎを頂いていかなければです。教えを頂いていかなければです、徳利が出来てこんのです。この徳利を持って行くから、これは五合徳利でしょ。なら、五合徳利持って行っといてから 一升くださいっち言ったっちゃ、これは無理ですよ。
ですから、やはり、五合徳利なら、四合か五合かしか、頂けんのですから。一升のお酒が欲しいなら、やはり、一升の徳利を用意しなければならないようにです、その、入れ物、受け物を用意というのが、そういう信心生活の中から、だんだん、身についていく、頂けてくるのだと私は思うんですよね。どうぞ一つ。
あのお道の信心させて頂いたら、もう 絶対に行き詰まるということがない。どういう目の前が真っ黒なるような。もうこれが壁だろうかと思うような場合でもです、お願いをし、おすがりをして行ったらです、必ず神様がここんところを、開けさしてくださるところの、手立てというものを、必ず導いてくださる、教えてくださる。だから信心をさせて頂く者の上には、行き詰まりがないということが、言えるわけですね、
どうぞ。